証明済みの創価学会の謀略体質 共産党・宮本議長宅電話盗聴事件≠検証する!! (第12回)

                      
 周到なる機材の作製・調達の後、盗聴を決行
        実行の最終決定には秋谷(現会長)も関与
共産党・宮本議長宅電話盗聴事件≠検証する!!                    第十二回  四代会長、北条浩(故人)以下、創価学会幹部四人を被告とする「日本共産党・宮本顕治宅電話盗聴」裁判は、八年間(昭和五十五年八月〜六十三年四月)続いた。
 この間の一審、二審とも、判決は被告側の敗訴だが、前回に引き続き、宮本顕治弁護団による「第一審最終準備書面」(昭和五十九年十二月)を紹介する。  先号では、同準備書面の中から、創価学会はどのようにして盗聴の準備をしていったか、そのアジトなどについて触れた。
 今回は、盗聴の機材についてである。
 「5、機材の調達・制作  被告らは、盗聴に必要な機材を購入、あるいは制作した。盗聴器(発信機)、受信機数台、オープンリール式テープレコーダーほかテープレコーダー数台、音声誘導装置、アンテナなど付随装置、自動車等であった(昭和五六・一二・九、山崎本人尋問)。注山崎=山崎正友元創価学会顧問弁護士。
 (一)盗聴器  盗聴器は前記のとおり、ニュー外苑ハイツの拠点に松本篤らが毎日のように詰め、作製した(昭和五八・七・一五、広野本人尋問)。注広野=広野輝夫学生部副学生部長。
 被告・広野は、松本篤が盗聴器の作製の仕事を、広野の自宅でやったこともある、と供述し、また、松本に対する技術的協力を行なった者が、他に一、二名いたことを認めている。
 実際に原告宅盗聴に使用したのは二台の盗聴器であることは、被告・山崎と被告・広野、同・竹岡(注竹岡=竹岡誠治学生部常任幹事)の間で一致しているが、その具体的内容について は、次のような食い違いがある。
 山崎供述では、昭和五六年九月ころ、松本篤に山崎が聞いたところ、二台とも松本篤の作製した、電話線の電流を電源とする発信機で、最初に取り付けた一台は八〇センチ位の長いアンテナがついていたため、発見される危機があり、短いものに付け替えた、という。
 ただ、昭和四十五年七月の本件盗聴発見直後の、被告・山崎に対する被告・広野の報告では、『一号機は雑音が多いため、付け替えた』ということであった。
 広野供述によれば、一号機は広野自身の作った電池式で、二、三日で電池がなくなるもの、二号機は松本篤の作った電話線の電流を電源とするもの、であったという。
 しかし、電柱に深夜、よじ登って盗聴器を設置す る、という危険きわまりない行為をする際、一方で長期間使用できる盗聴器を作製しながら(広野の供述によれば、松本が作製していた盗聴器は今日完成する か、明日かというところまで進んでいたという。昭和五八・一・二八、広野本人尋問)、あえて、二、三日で使えなくなってしまう電池式を取り付けるようなことをするのは、不自然きわまりない行為である。
 (二)受信機  受信機は当初二台購入 し、その後さらに購入して、本件電話盗聴の終わりころには、六、七台となった。バンドが多数ある特殊な受信機で、エアバンド(航空機の交信する波長帯)も入るものであった。
 当初、使用していた受信機に加え、エアバンド等も受信できる特殊な受信機五台を、本件盗聴の途中で、購入した事実は、購入のいきさつ、値段等は別にして、被告・広野、同・竹岡も認めている。
 (三)テープレコーダー  テープレコーダーは、オープンリール式一台、およびカセット式を数台、購入した。テープレコーダーについて被告・広野はカセット式ではないとしながら、二台購入したと供述している。
 (四)音声誘導装置  電話交信が始まると、自動的にテープレコーダーをスタートさせる装置=音声誘導装置を作製したが、これはうまく作動しなかっ た。  「この装置を作るために、既製品をぶっ壊してコピーするというようなことをいろいろやったが、うまく作動しなかった(昭和五七・一一・一七、広野本人尋 問)。」「そのため必要な測定機も含め、十五万から二十万かかった(昭和五八・一〇・二一、竹岡本人尋問)。」
 (五)乗用車  車は、創価学会幹部であり、板橋区の公明党区議であった西山某(旧特務機関員で、当時板橋区で西山電工という電気工場を経営していた)より車を譲り受けて使用したほか、レンタカーを利用した。この車は、後記のとおり、被告・竹岡が近くのガソリンスタンドでチケットで給油したた め、大きな問題にとなる。」
 こうした用意周到な機材の調達、作製のうえ、いよいよ学会グループは、宮本宅の電話盗聴の実行に移 す。
 「八、宮本宅電話盗聴の実行  1、実行まで  昭和四十五年五月三日の池田『謝罪』講演を機に、創価学会側は、それまでの強烈な反共キャンペーンを停止した。
 しかし、『赤旗』はその後も公明党・創価学会批判の連載『黒い鶴のタブー』を継続していた。
 五月十九日、右連載は『第三部終わり』と連載のくぎりをつけた。
 甲大九一号証(昭和四十五年五月十九日付『赤旗』)は、『まだ反共怪文書』『公明党は猛省≠オていない?』と題して、池田講演に対する世間の評価は楽観的ではないこと、相変わらずの公明党・創価学会の反共パンフレットや怪文書が各地でばらまかれていることなどを報じ、『国民は、重大な関心をもって公明党の一挙一動を見つめています』と結んでいた。 被告・山崎は、連載がこれで終わるのか、第四部があるのか、仮に第三部で終わっても原告宅電話盗聴を実行すべきか迷い、広野ら実行部隊には『ちょっと待て』と止めておいて被告・北条と相談した(昭和五六・一二・九、山崎本人尋 問)。
 被告・山崎は被告・北条に、『私としてはやるべきだと思うが、こういう状況にあるので、一度検討したい』と話したところ、北条も同意見で『何人かの人と相談しよう』ということになった。
 (二)五月二〇日すぎ、創価学会本部の副会長室わき会議室で、被告・北条、被告・山崎、秋谷栄之助、原島嵩、中西治雄の五人が集まり会議を行なった。  被告・山崎が状況説明を行ない、『準備もできており、決行したい』と意見を述べ討論になった。
 秋谷栄之助、原島は消極的で、被告・北条は迷っていたが、中西が『太平洋戦争に負けたのは、日本は情報戦に負けたのだ』との趣旨で被告・山崎を強く支持したため、結論は、絶対に事故を起こさないように、との注意のもとに決行が決まった。
 被告・山崎は、その直後、被告・広野に対し、『やることに決定したから、全力をあげてやろう』と指示した。」
 現・五代目の会長の秋谷栄之助氏も、宮本宅電話盗聴に関与していたことが、この準備書面で明らかにされている。その秋谷氏が現在、連日の聖教新聞紙上で人権≠訴えている。
 「2、盗聴器の設置  昭和四十五年五月下旬 (二十五日から三十一日の間)の深夜、被告・竹岡は、原告宅前の路上の電柱によじ登ったうえ、柱上に設置されていた端子函のふたをはずし、原告宅への電話線に接続している端子に発信機を接続させて設置した。
 被告・竹岡は、取り付け方法について広野の指示を受けたうえ、頭部にはベルト付きの懐中電灯、体を支える紐、ドライバー、ライターなどを道具として所持し、また見つかった時のための『護身用』バットを携帯し、電柱に登った(昭和五八・一二・二一、竹岡本人尋問)。
 右決行の当日、被告・山崎は、被告・広野より『今夜やります』との報告を受け被告・北条に電話で『やります』『しばらく自宅で、こちらに専念します』と報告した。
 翌朝三時ころ、広野は、山崎宅に電話で、『異常ありません』『朝になったら録音受信が始まると思うので、また報告します』との連絡をした。  翌朝、広野は『うまくいっているようです』と報告を入れてきた。
 盗聴器設置の時期については、後述のとおり、被告らの間にくい違いがある が、設置の翌朝、広野が山崎に電話で報告したこと は、被告・広野もこれを認めている。
 これによれば、設置の翌朝午前十時ころ、第一声を受信し、すぐ山崎に報告した。山崎は大喜びし、『そうか、注意してやれ』と話した。
 山崎は、設置後約一週間、自宅で待機し、非常に緊張し、神経をはりめぐらす思いで過ごした。
 (二)なお被告・広野、同・竹岡は、盗聴器を設置した時期について、五月二十五日から末日の間ではなく、五月八日の深夜(九日未明)であると主張し、そのもっともらしい裏付けとして『週刊朝日』の対談の話などを供述しているが、この点については、後に詳論する。」
 こうして創価学会は、宮本宅電話盗聴を実行に移した――。 (以下次号)


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