池田大作 日本経済乗っ取りの野望(4)

−創価学会の財政のすべて−

会員からしぼりとった金の力で、日本の全面支配へと乗り出す池田大作

第1章

創価学会の「独自・永久路線」推進と、日蓮正宗との摩擦


池田大作 日本経済乗っ取りの野望本の紹介

<第1章 INDEX>

昭和四十八年から同五十五年まで  絶頂期(昭和四十三年代)「広宣流布したとき首相になり国主になる」 と公言した池田大作
言論出版妨害事件の衝撃。「政教分離」「体質改善」を約束
「やりたい放題」のツケの清算に追われる
突貫作業で書類改ざん 司直の介入恐れ、ボロがくし作業
見せかけの「政教分離」作り 裏で池田大作の公明党支配を巧妙に
「四面楚歌」の中、正本堂落慶を迎える
正本堂御供養金を使い切って金欠におちいった創価学会
落ち込む聖教、民音収入
開き直り反撃に転じた池田大作
昭和五十一年に勢力回復
金集め開始と、日蓮正宗攻撃
創価学会「永久路線」と日蓮正宗対策
信者の前で日達上人を恫喝 「十三億円よこせ!!」
日蓮正宗制圧のノウハウ「山崎・八尋報告書」
「国際センター」で日蓮正宗支配計画
北条報告書に見られる「本音」
日達上人の「手切れ宣言」にあわてる池田大作
藤本庶務部長の「宗務院記録」を盗み写した桐ケ谷章弁護士
池田大作、宗門に復讐宣言
昭和五十二年元旦から、宗門総攻撃の火ぶた切る
池田大作、「謗法行為」の数々
総代会の陰謀、日達上人の覚悟
僧侶つるし上げの暴挙
徹底した経済封鎖
私に対する日達上人の働きかけ 「このままでは御先師方に申し訳ない」 日達上人、反撃を御決意
進退をかけて宗門攻撃中止を働きかける
創価学会からの「離脱」をはかった私
民社党と日蓮正宗の攻撃にパニックにおちいった創価学会
日蓮正宗の反学会感情が噴出 通じなくなった池田大作の手練手管
ゆとりの日達上人、追いつめられていく創価学会
池田大作、会長、総講頭辞任で事態収拾に
後継者を指名、くつろがれた日達上人
宗務院と若手僧侶の対立 日達上人、宗内秩序維持に苦慮
日達上人より急進派僧侶の説得を依頼される
日達上人御遷化と創価学会の巻き返し
のど元過ぎて、日蓮正宗を再ぴないがしろにした池田大作 ついに、日蓮正宗から破門

昭和四十八年から同五十五年まで
絶頂期(昭和四十三年代)「広宣流布したとき首相になり国主になる」 と 公言した池田大作

昭和四十八年は、本来ならば、池田大作と創価学会にとっての輝かしい栄光の年の幕開けになるはずだった。  池田大作が、会長就任直前に打ち出した、“七つの鐘”構想によれば、昭和四十八年から昭和五十四年までを、“第七の鐘”が鳴り終る時期とし、それは正に“広宣流布・王仏冥合”の総仕上げの時期と想定されていた。  昭和四十七年十月に、日蓮大聖人御遺命の“事の戒壇”たるべき正本堂を完成させ、その後の七年間で、“折伏”により、日本国民の過半数を創価学会員とし、選挙で公明党が国会の過半数を占め、政権を奪取する。  その時、池田大作が総理大臣となり、国会の議決で正本堂を“国立戒壇”と定め、最高権力者として大石寺の開かずの門を開き、大御本尊に“広宣流布の報告”をする……。  これが、池田大作が学会員に示しつづけて来た、広宣流布のスケジュールであった。  池田大作が得意の絶頂にあった昭和四十年代の初め頃、ジャーナリストのインタビューに対して、  「(我々は)やろうと思えば、どんなこともできます」 と豪語し、“広宣流布達成”の暁には、自分が、日本において宗教・文化のみならず、政治においても至高の権力になる、と宣言した。  「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」(高瀬広居著「人間革命をめざす池田大作その思想と生き方」より)  「天皇なんか問題になるかよ!!」  今日、世界でただ一人残ったカリスマ的独裁者・北朝鮮の金正日も顔負けの、“絶対権力者宣言”である。  「広宣流布達成の暁には、池田先生が総理大臣になる。“国主”として天皇より上になる。  我々“学会人”は(会員は、自分達をこのように自称して、非会員と区別していた)世の中で、あらゆる所で上になる。  その時は、我々を貧乏人とさげすみ、見下していた連中を見返してやるのだ。  我々は、邪宗の連中を女中や下男として召しつかい、子供の通学の送り迎えもやらせるような身分になる……」  このような妄想を語り合いながら、創価学会員達は、池田大作の示す未来像に酔い、  「正本堂ができるまで!!」 「開かずの門が開くまで!!」 を合言葉に、歯をくいしばって過酷な選挙活動や折伏ノルマに立ち向かっていったのだった。 日常顔を合わせる近隣や会社の人達に、学会員だからと馬鹿にされたり嫌われたりしても卑屈な追従をしながら、腹の中で 「今に見ていろ!! お前達を見下してアゴで使ってやるからな」 と、思いつづけていたのである。  実際、池田大作は、もはや総理大臣気どりで、“閣僚名簿”をつくったりしていたのである。 だが、現実は、そうは問屋がおろさなかった。


言論出版妨害事件の衝撃。「政教分離」「体質改善」を約束

昭和四十五年、言論問題で、独善的・排他的・反社会的な体質や行動が暴かれ、“政教一致”路線とともに徹底的に批判された創価学会は、正に“黒船来襲”ともいうべき衝撃を受けた。その結果、“一枚看板”ともいうべき「国立戒壇建立のための政界進出」というスローガンを放棄せざるを得なくなったのである。 つづいて、「政教分離」「民主化」「体質改善」を国民の前に約束させられた。 生きのびるために「広宣流布=国立戒壇建立」という、創立以来の最大の宗教的・政治的スローガンを降ろさざるを得なくなり、そして、世論の力で暴力的な折伏と政教一致の選挙活動という、“奥の手”の放棄をせまられた創価学会は、にわかに推進力を失った。 なかでも、“国立戒壇論”の放棄は、会員の目的観喪失とともに、それは教義の根本にもかかわりのあることだけに、日蓮正宗内での摩擦を生じさせないではおかなかった。 会員の中からは、造反者が出るようになり、日蓮正宗からは、僧侶や法華講の一部から、抗議や批判の運動が起こった。それは、“国立戒壇”と教えられていたものが、ただの巨大建築になってしまった正本堂そのものに対する疑念へと発展し、“御供養金返還訴訟”や、正本堂への御本尊御遷座阻止騒動となっていったのである。


「やりたい放題」のツケの清算に追われる

 

更に、言論問題以後、“鶴のタブー”とよばれた言論統制が崩壊したため、マスコミの批判がやりたい放題になり、敵対勢力の批判や攻撃への対応に苦慮した。 昭和四十五年から同四十八年頃までは、創価学会はちょうどバブル崩壊後の日本経済のように、過去のツケの清算に追われていたのである。それ以前のスローガンや手法を否定し、それにかわるスローガンや手法を見出す努力をしなくてはならなかったのである。  しかし、自信を喪失し、新しい展開を打ち出せない池田大作以下首脳達は、只々、現状維持の守りに徹し、会員の減少防止に奔走した。  このころ組織では、やたらに表彰や撮影会が行われ、  「十年後に、また皆で集おう」 と、文集作成や署名運動が奨められた。  「社会性をもとう!!」 と、近隣と仲良くつき合う運動や、ミニ文化祭等の行事もひんぱんにくり返され、会員や世論を、言論問題からそらし、反感をとりのぞく運動も熱心にすすめられた。 その一方で、創価学会本部では、“傷の手当て”や“ボロかくし”の作業が突貫で行われていた。 “折伏教典”をはじめとする全出版物について総点検が行われ、“独善的”“反社会的”と思われる部分が削除された。“政教一致”“国立戒壇”にかかる記述も一切消された。 一方で、社会順応、そして人格や道徳が強調され、それは、終戦時の“教科書の改訂”にも似た大転換であり、その結果、創価学会の出版物から独特のダイナミックさがなくなり、他の新興教団と同じようなものになった。  他党やマスコミに対しては、徹底した“モミ手”“接待”作戦で懐柔につとめた。


突貫作業で書類改ざん 司直の介入恐れ、ボロがくし作業

 

司直の介入恐れ、ボロかくし作業 それと併行して学会本部内では池田大作の独裁下、すべてがドンブリ勘定で行われ、創価学会と池田大作個人の金、そして正本堂御供養金の運用がゴチャゴチャになっていた会計や、宗教法人事務の修正作業が秘かに行われた。 私達弁護士と、公認会計士(補)、本部職員の徹夜の作業で、創立以来の責任役員会議事録の偽造・改ざん作業が行われ、会計帳簿や伝票類もほとんどすべてが改ざんされた。 創立以来責任役員会など、ほとんど開かれていなかった状態で、土地や建物の取得、登記、免税申請のつど、事務局長が、責任役員の三文判を押して議事録を適当に作り役所に提出していた。  そのため、同じ日同じ時間に、別の場所で、別のメンバー構成で、全く異なった決議をしたという責任役員会議事録が四通も存在していたという、笑うに笑えぬ事実が存在していたのである。  今では、すべて改ざんされ、これらの書類は整備している。  それでも、池田大作の独断専行のため、予期せぬ事態が生じ、更なる改ざんが必要になることに備えて、役員会議事録を作った当時の用紙、作成につかったタイプライター(今ではワープロ、パソコン等)が、保存されているという周到さである。  創価学会所有、あるいは外郭団体名義で取得した財産についても総点検が行われた。  池田大作は、取得した土地建物を、その場しのぎで創価学会とその他の団体にふりわけていた。  公明党本部の土地・建物が創価学会の所有物であったのを、公明党名義に、潮出版社の土地建物が公明党名義であったのを、潮出版社に移す等の、作業が行われた。もっとも、団地などの中に、議員をダミーにして違法取得した物件などは、そのままにしておくしかなかった。  組織は、従来のタテ線を廃止し、ブロック組織に移行する作業がすすめられ(今では、“選挙区”に対応した組織になっている)活動パターンにも、検討が加えられた。  折伏教典も改訂され、当たりさわりのない、おだやかな内容に改められた。  従来出版された書籍もすべて点検され、必要なものは改訂され、そうでないものは廃刊となった。



見せかけの「政教分離」作り 裏で池田大作の公明党支配を巧妙に

 

裏で池田大作の公明党支配を巧妙に  こうした作業とともに、最も力をいれたのが、世間の批判をかわすための“見せかけの政教分離”カムフラージュだった。  国会議員の学会役職が解かれ、それを次第に県会、市町村議会へと、時間をかけておろしていった。  公明党の自主性を演出するため、さまざまな工夫がこらされたが、一方で、目に見えないところで池田大作の支配とコントロールを維持するために苦心した。人事や政策は、こっそり開かれる池田大作の御前会議で決められた。  公明党の大会では、党員から反対意見や質問が述べられるようになったが、これらはすべて、池田大作が書いた筋書にもとづく八百長だった。  例えていえば、サラ金の取立てから家族を守るため偽装離婚した夫婦みたいなもので、夜になるとコッソリいっしょに暮らす、といった具合いである。  だが、こうした“カムフラージュ”等、小手先の細工をほどこしながらでは、大きな組織は動かせない。  創価学会が、世間の批判を気にして運動を手びかえた昭和四十七年暮の総選挙では、公明党は一挙に三十二まで議席を減らしてしまった。  しょせん、創価学会と公明党は、一つであり、池田大作がかつて宣言したように“同体異名”の存在である。  一人の人間を前から見てAと呼び、うしろ姿をBというのと変わらない。  あるいは、一人の男が、夫であると同時に会社員であるからといって、二つの立場に応じて人間を切りはなすことができないのと同様である。創価学会が、なりふりかまわず総力をあげて選挙運動をしなければ、公明党は成り立たないことを、この選挙は、はっきりと証明した。  「このままでは、公明党はつぶれる。そうなると創価学会もつぶれる」  こう見極めた池田大作は、創価学会首脳に、秘かに“政教一致路線”への回帰を宣言した。そして昭和四十八年以降、最小限、表向きの“分離”のゼスチャーは維持しつつ、公明党の選挙も人事も、そして路線も、池田大作が直接指揮し、統制する方向へ逆もどりさせた。



「四面楚歌」の中、正本堂落慶を迎える

  

そうした中で、昭和四十七年十月、正本堂落慶の時を迎えたのであるが、“第七の鐘”“広宣流布の時代到来”などといったさわやかな姿とはほど遠い、正に「四面楚歌」の状態だった。  妙信講の攻撃をかわすため、  「正本堂ができたからといって、御遺命の戒壇が完成したことにはならない」 と、後ろ向きの声明を聖教新聞に発表させられた末、御本尊の御遷座は、予定を一日早めて、池田大作と側近だけが参加して秘かに行われ、あとで発表される、という、みっともないことになった。  「流血の惨事も辞さず!」と脅しまくる妙信講を、私と秋谷栄之助氏(現会長)、原島嵩氏らで必死になだめ、何とか正本堂落慶法要にこぎつけた。次々とおそいかかる外からの攻撃や、造反を押えるのが当時の私の役目で、池田大作は、私に「四面楚歌 君がおわせば 王の道」と書いた色紙を贈っている。当初の“広宣流布の幕明け”などというムードはどこかへ飛んでしまった。池田大作をみじめさから救ったのは、ジョージ・ウイリアムス(貞永靖雄氏、アメリカ本部長)が大挙連れてきた“外人部隊”だった。  彼らの底抜けに明るいパフォーマンスで、沈み切った空気を何とか転換することができたのである。  落慶式が終った後、箱根研修所で疲れをいやしながら、池田大作はしみじみと「俺を守ってくれたのは、北条、中西、そして山友(私)と竹入だ」と言った。  だが、正本堂が、当初意義づけたような“御遺命の戒壇ではない”と定義を改めざるを得なかったことが、今度は、造反会員の“御供養金返還”訴訟を引きおこし、創対連(創価学会脱会者グループ)の返還運動を招いてしまった。  こうした“事件に対応するための専門のセクション”が設けられ、共産党宮本委員長邸電話盗聴事件で実績のある私が、その責任者にすえられた。  以来数年間、私は、学会本部の書類や会計帳簿改ざん作業と並んで、“事件対策”“情報師団”の仕事にも追われる毎日を過ごさなくてはならなかった。


正本堂御供養金を使い切って金欠におちいった創価学会

 

昭和四十五年から正本堂落慶を迎えた同四十七年は、池田大作と創価学会にとって正にいばらの道だった。そして、この“いばらの道”は更に三年ばかりつづくことになった。  正本堂が落成したということは、即ち正本堂御供養金三百五十億円が消失したことを意味する。  実際、翌年十月には、正本堂会計の清算作業を終え、概略を北条理事長のあいさつの中で報告するとともに、残りの事業と残ったわずかばかりの金を、大石寺側に引き渡している。 (北条氏のあいさつについては、第三巻二七〇頁〜二七八頁で、全文を紹介した。参照されたい)  池田大作が、それを武器に、銀行やゼネコン、経済界ににらみをきかせ、ひれ伏させた三百五十五億円とその利息百億円は、昭和四十八年十月をもって、完全に〇になった。  池田大作が手にした百億近い裏金も、この頃にはつきていた。  金だけが理由でつながっていた銀行もゼネコンも、“手の平をかえす”とまでは言わぬまでも、次第に冷淡になっていったのは当然である。  更に、創価大学の開校と時期がかさなり、多額の寄付が必要となったし、創価学園も、ちょうど金のかかる時期にさしかかっていた。  本部職員の不満を押さえるための昇給やボーナス支給も行われたし、マスコミ関係者や政治家に対する“接待作戦”にも、思いがけない金がかかった。  防衛活動のための機密費支出も少なくなかった。  また、昭和四十七年までは、本来創価学会の一般会計で支出するべきものまで、正本堂事業にかこつけて、正本堂御供養金から支出するケースも少なくなかったが、昭和四十八年以後はこのような“ウマミ”もなくなった。  二、三巻で詳しく述べたとおり、正本堂関連事業によって、東洋物産等、外郭会社は潤ったが、昭和四十八年以後は“正本堂特需”がなくなり、収益確保のために、外郭各社はそれぞれ企業努力をしなくてはならなくなった。


落ち込む聖教、民音収入
 

一方、創価学会の収入面はというと、言論問題での批判をかわし会員の不満をおさえるために、会員に対する“聖教新聞の多部数押付け”“出版物の強制的な購買”“民音興業チケットの押しつけ販売”等の収奪を、自粛せざるを得なかった。そのため、創価学会の金庫は次第に底をつき、預金は確実に減りつづけた。  池田大作が、世論・マスコミ対策のために、新聞社や出版社から本を出したりすることが多くなったが、これは印税で、小遣いかせぎすることも隠れた目的だったのである。  「かせいでもかせいでも、金は皆本山に吸い上げられ、大学や学園に持っていかれる。公明党には票をもって行かれる。俺には、悪口ばかりが(世間から)集まる」 とぐちをこぼすことが多くなったのも、この頃であった。  総選挙で大敗を喫した後、昭和四十八〜九年は首脳陣は、財政面でももはや“後がない”という、深刻な危機感を持った。


開き直り反撃に転じた池田大作 昭和五十一年に勢力回復

 

昭和四十八年から、池田大作は、密かに反撃を開始した。  “天下盗り”は池田大作の一生かけての執念であり、他から批判されたからといって捨てられるものではない。世間を気にして“政教分離”をすすめたら公明党はやがて消滅することははっきりした。こうなれば開き直るしかない。  会員の減少を防ぎ、組織をたて直す根本の方策は折伏しかない。  池田大作は、一時中止していた折伏を再開した。  もちろん従来のような、例えていえば通りを大勢でガナリ立てて我がもの顔に歩き、番犬小屋をわざとけとばして挑発するような、強烈な折伏はやるわけにはいかない。  そこで、幹部の中から選んでチームをつくり“一人年一世帯の折伏”を目標にし、そしてチームの輪を次第にひろげて行く方法をはじめ、いろいろな戦略をあみ出した。“目立たぬように着々とやる”“世間がアッと気付いたときはもう遅い”というやり方でやる。……  折伏の相手をよく研究して適した人物を派遣し、適した方法や話題を選ぶ等、マーケット・リサーチ的な手法も取り入れたし、“罰と功徳”一点ばりの“強折”をやめて、青年層には“歌とおどり”“サークル”“平和運動”を強調し、一般層には、やわらかく実利を説く等、ソフト路線に転換した。  仏壇や仏像を焼くことも禁止したし、家族が反対の場合は、無理やり御本尊を受けさせることもしないよう徹底した。  “折伏”という言葉とは似ても似つかぬソフトな布教方法に転換した結果、次第に成果があがり、昭和五十一年末には勢力を回復したのみか、過去最高の会員数に達していた。  この拡大した勢力で、“政教一致選挙”に、これまたソフトな“友人作り”方式を導入して行った。これが成功して昭和五十一年暮の総選挙では、公明党は五十四議席へと躍進し、野党第二党の地位を確保した。  言論問題の轍をふまぬよう、マスコミ対策に人手と金をたっぷりかけ、そして、他党との関係にも気を配ったから、今度は公明党の進出に対するはげしい“ゆりもどし”は来なかった。  何よりも、最大最強の批判勢力だった日本共産党との間の“創共協定”が事実上空文化したとはいえ、互いの中傷攻撃合戦を封じる効果はのこったから、創価学会の周りの波は急に静まりかえったのである。  この時期、他に池田大作個人にかかわる最大の危機ともいえたのは、昭和五十年初頭に始まった「月刊ペン」誌による、池田大作女性スキャンダル事件であった。  やむをえず刑事訴訟にふみ切り、警察に圧力をかけて逮捕・起訴させたものの、秋になって池田大作証人喚問必至の形勢となり、大いにあわてた。  池田大作に命じられて私は、笹川陽平氏(現日本財団理事長・船舶新興会会長)と裏工作を行い、三千万円の金で月刊ペン社の社長と弁護人を買収して、やっとのことで証人出廷を防いだが、これによって池田大作は、最大の悩みから解放された。


金集め開始と、日蓮正宗攻撃

こうして学会組織と公明党のたて直しに成功し後顧のうれいをなくした池田大作は、かねてより懸案の、日蓮正宗制圧と、そして大々的な金集めによる財政再建に乗り出したのである。  それは、また、池田大作が心中に描いていた“池田大作を本仏とする創価学会独立・永続路線”と表裏一体をなすものだった。  日蓮正宗との間には、既に昭和四十八年から、容易ならぬ空気がただよっていた。  池田大作は、日蓮正宗が、国立戒壇論放棄や妙信講との対決の際、充分な協力態勢をとらず、ややもすれば優柔不断に終始したとして、強い不満を持っていた。  これらの問題はすべて、池田自身が引きおこした災難であり、その対処に、日蓮正宗宗門も苦しんでいたことを無視して、非難の姿勢を強めた。  また、正本堂という大事業に対して、それほど感謝されていないとのひがみもあった。  これも、すべて自分の売名のために利用しつくしたにもかかわらず、“すべて日蓮正宗のために行い、自分には何も残らない”とぶつぶつ言いつづけた。  その一方で、  「日蓮正宗は、正本堂ができ上がったら、創価学会から離れていくのではないか。僧侶達は腹の中では創価学会を毛ぎらいしているに違いない」 との疑念と不信が念頭からはなれなかった。  正本堂ができてしまうと、もはや“運命共同体”として両者を結びつける材料がなくなったように思われた。  池田大作は、正本堂をダシにして日蓮正宗に対し高圧的な態度をとりつづけたから、それに対して、僧侶の反撥がくると警戒していた。  「今後、相手がどう出るか……」  疑心暗鬼になりながら、それをかくして表面上、さりげなく親密をよそおうが、どことなくヨソヨソしい気配が隠し切れなかった。  このような状況を打開するため、池田大作は、正本堂以後の日蓮正宗との関係のあり方を模索した。  これまで、創価学会は、一信徒団体でありながら、青年部の集団暴力と、強大な財力で日蓮正宗を圧倒し、押さえつけ、従わせてきた一面があった。  しかし、日蓮正宗の寺院が増え、若い僧侶も多数育ち、法華講員の信者も少しずつ増えていったから、従来どおりの一方的な関係が保ち続けられるかどうか、保証のかぎりではない。


創価学会“永久路線”と日蓮正宗対策

   

池田大作は、創価学会を独立させることから、創価学会を解散し日蓮正宗と一体化することまで、あらゆる選択肢を考えたらしい。  戸田城聖は創価学会を宗教法人にするに当って、日蓮正宗に「広宣流布したら創価学会を解散する」と約束していたのである。  首脳とも話し合い、私も何度か相談にあずかった。  結局、池田大作は  「創価学会は、永久に存続させる。日蓮正宗については、戸田先生のころから坊主は不必要という創価学会の路線は変わらない。  ただ、創価学会にとって、御本尊と法主という、宗教上の権威は、どうしても必要である。確保したい。少なくとも、今これを失うわけにはいかない。また、長い間、大金を投じた大石寺や末寺を利用しないという手はない。  さればとて、言論問題のときのように後からいろいろ撃たれたり横ヤリを入れられては、安心して進めない。  また、これから先、日蓮正宗と大勢の僧侶や寺院をかかえ、維持していくことは、会員に二重の負担を強いることになり、やがて行きづまり、経済摩擦が生じるに違いない。  この際、もう一度日蓮正宗を締め直して、反学会分子と反学会ムードを一掃し、完全な支配下に置く必要がある。完全に管理して、日蓮正宗を巨大化させないようコントロールしなくてはならぬ。  また、野放図に金集めなどさせないよう、しっかりとタガをはめる必要がある」 との結論に至った。  折から、創価学会自身、財政がひっ迫し、金庫も預金も底をつきつつあったから、経済上の問題は特に切実だった。池田大作は、日蓮正宗が学会員から金を吸いあげることを我慢できなかったのである。



信者の前で日達上人を恫喝 「十三億円よこせ!!」

 

「十三億円よこせ!!」  方針を決めると、すぐに実行に移すのが池田流である。 まず昭和四十八年十月十四日、正本堂東広場完成法要の記念式典のあと、数千人の学会員の目の前で、池田大作は日達上人にごう然と喰ってかかった。  「猊下はウソつきだ!!  正本堂で、あれだけやらせておいて、御本尊一幅ですまそうとする。ずるい。  約束の十三億円、私に下さい。必ず下さい!!」  日達上人は、正本堂建立に対する慰労のため、創価学会に「賞与本尊」の下付を約束されている。それは、大変名誉なことなのだが池田大作は、それでは不足だというのである。 日達上人は、そんなお金が、大石寺にあるわけがない、と抗弁されたが、 「猊下は約束された。約束は守って下さい!」 と強く迫った。  日達上人は、その場は、  「わかりました。あとで考えます」 と引き下がったが、周囲にいた僧侶達や会員達は、凍りついたようになり、顔をこわばらせて静まりかえった。  池田大作は、“自分が御法主より上だ”という印象を会員に植えつけ、また、“宗門は取るばかりで感謝の心がない”ということをアピールするために、この日の場所を選んだのだが、思惑とは逆に、会員達には、異様な思いだけが残った。  池田大作は、更に日蓮正宗宗務院との連絡会議で追い打ちをかけた。  その三日後、早瀬日慈総監と北条浩理事長の間に、“十三億円”の支払いについての覚書が交わされている。



日蓮正宗制圧のノウハウ「山崎・八尋報告書」

 

翌四十九年元旦、初登山の際の“お目どおり”の席で、並みいる学会幹部の前で、池田大作は「僧侶の素行が悪い」とまたまた日達上人を徹底的にこきおろし、総括した。  更に、私を中心とする弁護士達と、聖教新聞社経理局長を中心とする経理師団を大石寺に派遣し、  「正本堂事業の会計上のつき合わせをしておかないと、国税局にふみ込まれる」 という名目のもと、大石寺の法人事務と経理のすべてを公開させ、詳細に検討する作業に着手した。  その調査がおおむね終わった段階の同年四月十二日、私と八尋頼雄弁護士(現副会長)とで、池田大作宛に次のような報告書を提出している。  「本山の問題についてはほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについてふたとおり考えられます。一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり向こう三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。本山管理に介入することは、火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。しかし、私の考えでは、本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に学会にとっては存在価値のある外郭と思われ、これを安定的に引きつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。こうした観点から後者の路線ですすむしかないように思われます」  その方法として、@本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配、A財政面の支配(学会依存度を高める)、B渉外面の支配、C信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等)、D墓地、典礼の執行権の委譲、E総代末寺支配、の六項目をならべている。



「国際センター」で日蓮正宗支配計画

その上で、「財団法人日蓮正宗国際センター」の設立に着手し、その許可と、日蓮正宗がその傘下に加わることを日達上人に強要した。  これは、日蓮正宗国際センターの理事長ないし総裁に池田大作が就任し、その傘下に、創価学会と日蓮正宗及び世界各国の信者でつくられた法人が参加する、という形であったから、日達上人も、さすがに堪忍袋の緒を切られた。  日達上人はこれを断固として拒否されるとともに、創価学会と手を切ることを前提に、  「ひさしを貸して母屋をとられてはならない。元の小さな教団にもどり、畑をたがやしながらでも、日蓮大聖人以来の法灯を守ろう」  「正本堂から、大御本尊を元の奉安殿にもどすことも考えなくてはならない」 と、宗内に宣言された。  それとともに、創価学会の“池田本仏論”を中心とする教義逸脱をきびしく批判された。  池田大作は、日達上人の反撃に腹を立てたが、しかし、日達上人が思いのほか強硬に出られたことで、うろたえ、いそいで懐柔策に切りかえた。  この時期の、日達上人及び日蓮正宗との交渉役は、北条浩氏と私が担当していた。  私達は国際センター設立の承認を求めて日達上人にお目どおりした際、思いのほか強い拒否に会い、あわてた。  当時の庶務部長の記録された“創価学会・宗門記録”によると、北条氏が事情を説明し私がそれをフォローするのに対して、日達猊下は終始「非協力」の姿勢を貫いた。例示すると、「アメリカでは寺もいらない僧侶もいらないとなってきている」「日蓮正宗とは別個に学会として作ればいい」「正宗は、小さいままでけっこう」「教義はどんなことをしても守らなければならぬ。国際センターのことは学会だけでやったらよいでしょう」「謗法が加わるとおさまりがつかなくなる」といった具合であった。  私の記憶では、日達上人は  「いくら学会が折伏して増えたといったって、謗法する人が増えたのでは何もならんでしょう」 とまで言い切られた。


北条報告書に見られる「本音」

 

これに憤然とした北条は、翌日付(五月十日)で池田への報告書を作成した。  「本山の件」と題するこの報告書で、北条は  「九日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。反論はその都度しましたが、話のすじはわかっても感情的に思いこんでいるという所があり、広布の上に重大障害となり、また宗門僧侶の問題等の一切の根源がここから出ていると感じました」 と当日の模様に対する全般的な感想を述べ、日達猊下の「問題発言」として四項目にわたって挙げてコメントをつけている。そして結論的に、  「(猊下は)広宣流布など全く考えていない。自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮らせれば満足という風にしか考えられません。学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないのなら、うまく使ってゆくか、徹底的に斗って学会の旗を守って死んでゆくか、いずれにせよ先生の最大のご苦心にふれる思いで、決意をかためました」 としている。更に、六月に入って、北条は、  「長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。本質はカソリックとプロテスタントのような違いである。戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ〈山友(山崎正友)・八尋が話し易い関係にあります〉を太くするとか、当面猊下の異常心理をしずめ、新しい進路を開きたいと考えます。但し、やる時がきたら、徹底的に斗いたいと思います」 という内容の報告書を提出している。


日達上人の「手切れ宣言」にあわてる池田大作

だが、当面手を切って困るのは池田大作と創価学会である。  当時私は、大石寺の経理調査団の中心者であり、芙蓉坊(当時、雪仙坊の近くにあった。元々は、医師の常駐する場所であった)を全館使用して、週二日ほど、ここで寝とまりしながら、八尋頼雄、桐ケ谷章らとともに経理部員を指図して、大石寺の金や不動産の全容把握作業に従事した。  また、国際センター設立について、規約づくり、その手続き一切を担当していた。  調査団の中で、どういうわけか、私は、日達上人はじめ日蓮正宗首脳に好意を持たれるようになり、その結果、いつの間にか日蓮正宗と創価学会の和解工作も、全面的に私の担当するところとなったのである。  昭和四十九年五月以降、当時の早瀬日慈総監、阿部信雄教学部長ら宗務院の役僧は、日達上人から強くクギをさされて、全く動けない状態だった。いくら創価学会が働きかけても、  「今度は、お山の意思は固い。私達も日蓮正宗僧侶として、御法主上人の思し召しに従うのみです」という答えしか返らなかった。  それでも、更に強引に池田大作が宗務院に調停を依頼し、それでは、ということで早瀬総監が日達上人の意向をうかがった結果、  「日蓮正宗と創価学会は別れて、今後、別の道を進みましょう。創価学会は好きにやったら良いが、日蓮正宗は一切関係ない。ただし、大石寺に、学会員が参拝する際は、信者として取り扱い、御開扉はいたしましょう」 という、事実上の、“手切れ宣言”がもたらされたのであった。  池田大作は、ろうばいし、すぐに、宗務院役僧に対し、  「“信者として扱う”とは、まことに水くさいお言葉だ。承服できない。私達は、あれだけ苦労して御供養した正本堂なのだから、絶対に大石寺からはなれません。なすびやきゅうりではないのだから、簡単に切られてたまるものか!!」 と八つ当たりした。 日達上人の、思いがけぬ強硬な反撃にあって、一度は憤慨した創価学会首脳であったが、しかし、将来は別として“即時手切れ”という事態は何としても回避しなくてはならなかった。 だが、宗務院を通じての交渉窓口を断たれ、打つ手がなくなった池田大作は、私と大石寺内事部僧侶、あるいは庶務部長(藤本栄道尊師、現藤本総監)との、訴訟や経理調査を通じての人間関係をたよっての水面下の交渉にすべてをかけた。 “国際センターは、創価学会だけでやり、日蓮正宗は関係ない” “大石寺登山に、できるだけ多数参加させる” “新たな寺院建立を考える” “十三億円はもう結構です” 等々の譲歩案を提示して、私は、内事部理事、あるいは庶務部長を通じて、日達上人にお目どおりし、創価学会との絶縁を思い止まって下さるよう、働きかけた。  昭和四十九年七月初め、日達上人は、讃岐本門寺に法要におもむかれた。  そこに、主だった僧侶を集められ、創価学会と絶縁する旨の発表をされる予定だ、という情報が入り、池田大作以下、創価学会首脳は大いにあわてた。  前日夜、私は、池田大作の  「どんな御指南でも従いますから、絶縁宣言は思い止まってほしい」 というメッセージを日達上人のお供をされていた庶務部長に伝え、その結果、  「わかりました。もう一度、本山へ帰って考えましょう」 という日達上人のメッセージを受けとった時には、私も、創価学会首脳もホッと一息ついたのだった。  その後も、紆余曲折はあったが、その年の暮には、日蓮正宗と創価学会の関係は、何とか平穏を保つに到った。  もっとも、この年の夏、妙信講が、日蓮正宗、及び創価学会との休戦協定を破棄し、実力行使に出て、秋には、創価学会本部に集団で殴り込みをかける事態となった。  この、妙信講問題への対応のため、日蓮正宗と創価学会は、否応なく協力して当たらなくてはならなくなったことも、両者間の争いに水をさす大きな理由となった。  「創価学会が過去の過ちを改めるというなら、和合して進むことが宗門にとって一番良いことである」  この信念にもとづいて、皆が臆して手を出そうとしない妙信講問題において、阿部信雄教学部長(総監代行=当時)は、あえて火中の栗を拾い、日達上人の御指示のもと、妙信講破門の陣頭指揮をとられた。  当時の、阿部教学部長(現御法主上人猊下)や、藤本庶務部長(現総監)の、毅然として日達上人をお守りし、妙信講あるいは松本勝彌に対する対応や、訴訟に協力された姿に、創価学会弁護団も心を動かされた。  池田大作の前で報告をする際、福島啓充弁護士(現副会長)が、  「阿部先生、藤本先生は、まことに御立派です」 と話したところ、それまでにこやかに弁護団の話を聞いていた池田大作は、急に血相をかえ、真っ赤になって  「俺の前で、二度と坊主のことを先生などと言うな!!」 と怒鳴りつけた。 一同あっけにとられたが、以後、池田大作の前では二度と、僧侶に敬称をつけて呼ぶ者はいなかった。 こうした、裏の姿とは正反対に、この頃、池田大作は、宗務院役僧の御機嫌をとりつづけた。 折から、「月刊ペン事件」「創共協定問題」「松本勝彌氏対策」「地元富士宮市対策」等々、大きな事件の処理がなお続いており、その対応に追われている間、日蓮正宗と事をかまえることは何としてもさけなくてはならなかった。また、前回の失敗にかんがみ、日蓮正宗攻撃のため、準備を充分ととのえる必要があったことも、日蓮正宗への対応を慎重にさせる原因となった。


藤本庶務部長の「宗務院記録」を盗み写した桐ケ谷章弁護士

妙信講対策や訴訟打合せの合い間に、池田大作は度々、宗務院役僧を料亭「光亭」の会食にさそってもてなした。 その間に、桐ケ谷章弁護士は、藤本庶務部長が打合せのために持参していた「宗務院記録」を、カバンからこっそり持ち出し、コピーしてから何くわぬ顔で戻しておいた。 将来予想される日蓮正宗との抗争の第二ラウンドで活用するための“盗み撮り”であった。 桐ケ谷章弁護士は、池田大作から、“良くやった”とほめられた。 こうした創価学会の面従腹背は、昭和五十一年暮までつづく。例えば、“本尊模刻”である。池田大作は、日達上人が創価学会の会館に御本尊を下付して下さらないことに業をにやし、こっそりと七体もの本尊を勝手に模刻し、“二重”につかうことでその場をしのいだのである。“手切れ”となったとき、勝手に御本尊を作って増やす腹づもりが、一足先に実行されたのである。  その間、「月刊ペン事件」は、前述のとおり、私と笹川陽平氏(現日本財団理事長)の裏工作によって相手方の買収に成功し、池田大作の証人出廷を行わないで解決するメドがついたし、富士宮市対策も、池田大作が、多額の寄付と引きかえに名誉市民称号を得たことで落着した。  その間、大石寺を封じ込めるための墓園工事(後述)もメドが立ち、私達の調査によって、大石寺、日蓮正宗の“財政”の実態もほぼ把握した。  言論問題以後、ゆれつづけた政治路線も、同年十二月五日の総選挙で再び政教一致選挙を展開した結果、公明党は五十四議席を獲得し、“言論問題”以来の“負の資産”の整理は、いちおう終わったかに見えた。


池田大作、宗門に復讐宣言

自信を回復した池田大作はそこで、日蓮正宗と日達上人に対する復讐戦にとりかかった。  昭和五十一年暮、池田大作は、大阪市の関西本部に首脳を集め、  「天下を取れることが私には見えてきた。いままで創価学会をいじめた者を今からやる!!」 と宣言した。  既に、同年中頃から、池田大作は、秋谷栄之助副会長、野崎勲、八尋頼雄弁護士らを中心にすえて、“日蓮正宗懲罰対策”を練っていた。それを、昭和五十二年の初めからいよいよ実行に移したのである。この作戦に、私はまったくツンボさじきに置かれた。  私は、当時、日蓮正宗との融和路線の総責任者であったから、私の性格上、裏でこっそり“攻撃作戦”を練る作業にたずさわるという、二面性をいさぎよしとしないであろうことをおもんぱかったのだろうか。  あるいは、冷静に考えれば、日蓮正宗と事をかまえるのは、なお時期尚早であることは承知の上で、しかし、池田大作がどうにも感情を押さえられなくなって攻撃に出た、という点で、事前に私に相談したら、必ず制止されると思ったからなのか。  もっとも、私の元へは、池田大作の口止めにもかかわらず、日蓮正宗攻撃の準備にたずさわった人達から情報はもたらされていたから、知らないわけではなかった。  だが、私は、除外されたことを奇貨として、日蓮正宗攻撃には一切関与しないつもりでいた。  私は既にこの頃、池田大作と創価学会のやり方と、汚ない仕事ばかり押しつけられることにうんざりして、当面手がけていた事柄の処理が終わったら、創価学会関係の仕事から手を引いて、平凡な弁護士の生活にもどろうと、密かに決心していたのである。  昭和五十二年の一月から三月にかけて、私は、「月刊ペン」事件の裏工作を口実に、もっぱら笹川陽平氏や西崎義展氏らと、銀座や赤坂で遊び呆けていた。その後も、海外旅行や、クルーザー遊びに熱中するふりをした。それは、池田大作のぜいたくや女ぐせに対する当てつけであるとともに、  「私は、創価学会幹部としての出世を望まず、窮屈な暮らしは御免だ」 という意思表示でもあった。


昭和五十二年元旦から、宗門総攻撃の火ぶた切る

 

昭和五十二年元旦、池田大作は、創価学会本部広間で行われた勤行会で次のような演説をして、日蓮正宗攻撃の火ぶたを切った。  「日蓮大聖人の御書の通りに実践しておるのは、創価学会でございます。いな創価学会しかない。もはや御本尊は全部同じです。どの御本尊も同じです。その御本尊を根本として広宣流布のために日夜活動している」  「私ども地涌の菩薩は敢然として、まず大聖人の御遺命である正本堂を建立しました。誰がしましたか途中で。創価学会がしたんです。私がしたんです。そうでしょう? 大聖人はお喜びでしょう。御本尊様は最大に創価学会を賛美することはまちがいない」  「寺院というものは、葬式、それから結婚式、それから御授戒……儀式の場なんです。儀式の場です。勘違いしちゃいけません。〈中略〉本山に於いては、大坊も創価学会の寄進です。大講堂もそうです。大客殿もそうです。大化城もそうです。総坊もそうです。五重の塔、御影堂、山門も全部修復したのは私です。創価学会であります。坊をいくつも造った。いや何百という寺院を造りました」  “もはや御本尊は全部同じです”という発言と、先の本尊模刻の事実を照らし合わせると、まことに興味深い。  更に同年一月十五日の第九回教学部大会(関西戸田記念講堂)で「仏教史観を語る」の原稿を読み上げた。その要旨は次のようなものである。  @日蓮正宗は民衆を導く機能を失った「出家仏教」である。  A創価学会は在家・出家の両方に通ずる役割を果たしている。  B創価学会は剃髪せず俗衣を着した在家の群像であり、それは真の菩薩僧の意義をもつ。  C仏法流布・民衆救済に励む創価学会は供養を受ける資格がある。  D儀式のみを行ない、わが身の研鑽もしない日蓮正宗の寺院は道場ではない。  E大乗仏教の興隆は在家教団によってなされた。  F創価学会の本部・会館・研修所は近代における寺院である。


池田大作、「謗法行為」の数々

池田大作は、この頃、代々会長に伝える“重宝”を定めたり、  「創価学会は永久に存続する。後世、“創価学会仏”と呼ばれるようになる」 等と発言し、自らを、日蓮大聖人の再誕である、との演出を開始し日蓮大聖人の故事にならって  「本弟子」「新弟子」 を定めたりしている。  私も、原島嵩氏も、また行方不明とされた細谷昭氏らもレッキとした新弟子であり、竹入義勝氏、竜年光氏、矢野絢也氏らは、本弟子である。  もっとも、池田大作は、造反者の出ることを予感していたようで、  「背いた者の名は、朱線で消し、“背き了んぬ”と書く。その者は地獄に落ちる。そうならないように心せよ」 と脅した。  また、“創価学会守護の血脈”などといった血脈相伝のまねをしたり、牧口、戸田、池田の三代会長を神聖化し、念珠にその頭文字を彫って幹部に与えたりした。  “塔婆供養”にかわる“慧光照無量”の書を与えることも行われた。  あらゆる面で、日蓮正宗を否定し、創価学会こそ日蓮大聖人の直弟子であると強調したのである。  池田大作は、時には  「日蓮大聖人は、御本尊を顕わされたが、私はこれを日本中に広め、本門の戒壇である正本堂を作った。広めることの方がはるかに大変なことだ」 と、自分が日蓮大聖人以上の事蹟をなしとげた末法の“本仏”であることを強調した。


総代会の陰謀、日達上人の覚悟

 

池田大作は、更に、同年一月二十日、関西白浜研修所で総代会を開き、日蓮正宗寺院の総代を務める学会幹部を集めて、日蓮正宗寺院に対する対策を打ち出した。  当然ながら日達猊下は池田のこうした動き、とりわけ記念講演(仏教史観を語る)を重大視された。  「今朝の聖教新聞を読まれて承知していることと思うが、最近宗門と学会の間に冷たい隙間風が吹いてきた感じで困ったことである。宗門としては今後、向こうがどう出てくるかを静観していこうと思う。寺としては、参詣に来る人を大切にし、信仰をすすめ、法門を説いていってもらいたい。また、相手が何を言ってきても腹を立てないようにしてほしい。二、三人で議論するのは良いが、大勢集めて問題を起こさないでほしい。今のところ北陸方面ではだいぶ影響が出てきているようだが、大都会ではいまだそう影響は出ていない。〈中略〉昭和五十四年が学会の創立五十周年に当たる。これを契機にどういう展開になるか判らぬが、この三、四年静観していく。将来、学会と訣別することになるかもしれぬが、その時はその時で去るものは追わず、来る者は拒まぬつもりだ。そしてクルミのごとく堅くじっと古来の正宗の形を守っていこう。その時こそ我々は、自分のもつ力を最大に発揮し折伏して大きくしていこう」(昭和52年1月17日、妙修尼法事饗応=宗務院・学会記録文書)  なお、学会の一連の宗門対策の会合が、東京ではなく、関西で行われていることに注目されたい。  東京には、私をはじめ、短兵急な宗門攻撃に反対すると思われる幹部を残しておいて、攻撃部隊を関西に集めて旗あげをしたのである。  池田大作は、更に自らを超越的な指導者とすべく「創価学会“師”」などの名称を定めた会則案の起草を私達に命じている。宗教法人規則も、なしくずし的に日蓮正宗との関係をうすめ、独立に備えていったのである。



僧侶つるし上げの暴挙

こうして教義的にも体制的にも、“独立”する路線を固めながら、池田大作は日蓮正宗への直接攻撃にふみ切った。  一月二十日、まず、日蓮正宗若手僧侶の中でも、反学会の急先鋒的な論客であった菅野憲道氏に対する、学会青年部によるつるし上げで火ぶたが切られた。  原田稔副会長らを実行部隊の長とする青年部幹部は、反学会的とみられる僧侶を次々とつるし上げて行った。  この“つるし上げ”について、事務局長的な立場の竹岡誠治氏(宮本邸盗聴事件の主犯の一人)の書いた報告書のコピーが手元に現存する。  同文書によれば、  「本年一月より詫び状をとった坊主は次のとおりです。   

一月二十日、二十七日  菅野憲道   

一月二十八、二十九日  松本珠道   

二月六日、七日     坂井進道   

二月十二日、十四日   栗林開道   

二月十六日       小野顕道   

二月二十二日      高見求道   

三月十二日       西本暁道   

二月十四日       中村福道   

八月三日        玉沢研済」  

この報告には、学会側担当者、詰問内容や時間等がくわしく書かれている。  つるし上げられたメンバーは、日達上人の直弟子達であり、創価学会は、はっきりと日達上人に照準を当て、その責任を追及して退座に追い込み、そのあとに、自分達のいいなりになるカイライ法主を擁立しよう、というのが最終目的であった。その上で、創価学会にたてつく僧侶は一人のこらず宗門からたたき出す・・・池田大作はこう目論んでいた。  日達上人と日蓮正宗は、まったく不意をつかれた形となり、創価学会側の“これでもか、これでもか”とくり出す攻勢に対して、対応の準備もなかった。  それに、つるし上げの内容には、  「お前らが非を認めないなら、青年部は大石寺をとりかこみ、大奥に押し入って日達上人をとっちめてやる」  「学会を守るためなら、我々は何でもやる!!」 という脅迫が含まれていた。  日達上人の弟子達も、そして役僧達も、日達上人に危害が及ぶことだけはさけなくてはならぬ。当面、  「引く時は引かねばダメ、出る時は出てよい。今はガマンせよ」(日達上人) という戦法で、創価学会の意図を見極めるしかなかった。弟子達は断腸の思いで詫び状を書き、宗務院は日達上人に代わって頭を下げつづけるしかなかった。  一方的な攻撃に、立ちすくむ日蓮正宗側に対して、池田大作は更に追い打ちをかけた。  「猊下が悪いのです。弟子に対する教育がまるでなっていない。」  日達上人は、  「すべて私の責任です。今後充分注意しますので、弟子達をこれ以上いじめないでください」 とわびる形をとられ、ここで創価学会は、ひとまず攻勢をおさめた。  



徹底した経済封鎖

創価学会が、日蓮正宗攻撃の途中で立ち止まって様子を見ることにしたのには、二つの理由がある。  一つは、日蓮正宗内の反発の強さである。  既に、昭和五十年度から、創価学会による大石寺登山は激減した。また、会員の寺院への参詣も、創価学会の指図で差し止められた。  “経済封鎖”である。  この、“寺院もうで禁止令”は、昭和五十二年になって更に徹底され、幹部が毎日寺の玄関を見張り、下駄箱の下足の数をかぞえる、という有り様だった。  こうした措置や、つるし上げの実態が広まるにつれて、宗内には異様な空気がみなぎった。  創価学会の力を恐れて、“さわらぬ神にたたりなし”をきめ込む者もいたが、大勢は、  「このまま追い込まれるなら、寺はのたれ死にするしかない。それならば死にもの狂いで反撃しよう」 という空気が大勢を占める勢いとなった。  もう一つは、外ならぬ私の去就である。  私は、日蓮正宗攻撃作戦への不参加によって、明確に攻撃反対の意思表示をし続けたが、同年三月になって、明確に反対の意思表示をし、攻撃中止を申し入れた。容れられなかったら、創価学会から離脱することをほのめかしたのである。


私に対する日達上人の働きかけ 「このままでは御先師方に申し訳ない」 日達上人、反撃を御決意

同年二月の末頃、日達上人から私に、秘密会談の申し入れがあった。  当時、文京区西片町にあった管長宅(大石寺出張所)へ、密かに出向いた私を、自らスキヤキ鍋でもてなしてくださった日達上人は、この数年、日蓮正宗のために好意的に働いてきた私の労をねぎらわれた上で、  「現在、御承知のとおりの事態で、困り果てている。貴方の御尽力のおかげで、正宗と学会はやっと元のサヤにおさまったと思って安心していたのに、今の池田大作の所為は気が狂ったとしか思えない。学会には、誰か池田を諫める人はいないのですか」 と切り出された。  「“今年から、俺のやりたいようにやらせろ、失敗したら、また、後をたのむ”とクギをさされていて、私には口をはさむことができません。今は見ている他ないのです。また、仲直りするときは私のところへ言ってくるのでしょうが……」 と答えると、  「それでは、笹川良一さんとか、誰か力のある人にたのんで、たしなめてもらうわけにはいかないだろうか」 と、重ねて相談された。  「そういう人に言われても、従うような池田先生ではありません。また、自分が世界で一番偉いと思っている人だから、そういうことを言える立場の人はいません」 と言上すると、  「やはりそうですかねえ」 といって、ため息をつかれた。 「このままでは御先師方に申し訳ない」 日達上人、反撃を御決意  しばらく、黙々とスキヤキを食べていたが、食事も終わるころ、日達上人は、威儀を正されて、  「自分としては、私情を殺して広宣流布のためと思い、先師方の後を継いで創価学会を立ててきた。宗内の異論を切り捨ててまで、池田さんには誠意をつくして協力してきた。  それが、ここまで日蓮正宗をふみつけにされては、いよいよ腹を決めるしかありません。私も歳だが、このままでは、霊山に行って歴代の御先師方に会わせる顔がない。根性のある僧侶と、根性のある信者を頼りに、ひとつ戦うしかありませんな」 と述べられ、  「山崎さん、あなたとこうなったのも御仏縁だ。どうか、日蓮正宗のために力を貸してください」 と、私ごとき者に頭を下げられた。  池田大作は、いろいろな欠点やクセのある人だが、私をとり立て、重用し、他の幹部がやっかむほど可愛がった。  当時、創価学会での役割にうんざりして、何とか後をにごさないよう、創価学会から抜け出そうと動きはじめた最中でもあり、正直いって、これ以上、やっかいなことにはかかわりたくなかった。  また、池田大作と創価学会の恐ろしさ、手強さは、私が一番良く知っている。池田大作を相手に、追いつめられた日蓮正宗に加担して、余り勝ち目のない戦さをするなんて、その時の私にとっては、思っただけでも身ぶるいがした。日達上人は老齢の上、心臓病が思わしくなかった。  しかし、目の前に、私を信頼してここまで率直に仰せくださる御法主上人のお姿がある。  私の脳裏には、入信以来のいろいろな場面が走馬灯のように浮かんだ。親しい首脳や幹部の顔が浮かんだ。  私の親族や友人も、ほとんど折伏して創価学会員となっている。  池田大作と戦うことは、私にとって、生活の基礎と、人間関係の九割以上を失うことを意味する。  だが、私は、池田大作を信仰して創価学会に入ったわけではない。大御本尊を信じ奉り、御本仏日蓮大聖人を信じ奉り、正行の題目をとなえるために日蓮正宗の寺院で御授戒を受け、創価学会員になった。その信仰の中で、いろいろな体験もしてきたのである。  このとき、私は、打算や計算、利害といった考えを捨て、純粋に自分の心の奥にあるものに問いかけ、決心した。すべてを捨て、生命もなげ打って日蓮正宗を守って来た先人のおかげで法灯は連綿として守られ、そのおかげで私も、信仰につくことができた。今は私が身を投げだす時なのだろうか。  「わかりました。当面の“つるし上げ”や攻撃は何としても止めさせるよう、私の一身をかけて何らかの手を打ちます。  しかし、長い目で見た時、御宗門と学会の間には、重要な点でどうしても相容れない部分があることは、猊下も充分御承知のことと思います。  そのことを踏まえて、将来、“自立”することもやむを得ずとのお覚悟で御判断なさるべきではないでしょうか。  ただ、御宗門としては、今後、あくまで、法門と信仰のあり方、伝統の原点に立って、大義名分をしっかり立てられて行動なさるのがよろしいと思います」  日達上人は、何度もうなづかれた。  その後、  「当面は、何を言ってきても、柳に風で受けながし、頭を下げて、時をかせぎ、態勢をつくってから反撃する」 というお考えをうかがい、西片町のお宅を退去した。


進退をかけて宗門攻撃中止を働きかける

翌日、学会本部で北条浩氏に会った私は、単刀直入に、  「担当している一切の仕事から手を引きたい」 と申し入れた。  何事かと驚く北条氏に、  「今のような、見境のない宗門攻撃を続けていたら、宗門側も耐え切れなくなって、なりふりかまわず反撃します。既に、各地にその兆しが見えます。  妙信講問題も、松本勝彌の裁判も、宗門との協力関係の上で対策が組み立てられていますから、両者手切れになったら、裁判の方は総くずれになります。  創価学会に対抗するため、もし、宗門と妙信講が手を結んだらどうなりますか。  『正本堂は、事の戒壇ではない』 とはっきり定義されたら、松本勝彌の主張が通ってしまいます。  マスコミがさわぎ、その他の諸々の事件も息を吹きかえして、収拾がつかなくなる。  そうなると、私には解決の自信がないから、やめさせてください」 と言った。  どうしたら良いか、と尋ねる北条浩氏に、これ以上、宗門側を追いつめるのは得策ではないから、恩を売る形で攻撃をやめるよう、進言した。  「幸い、まだ、マスコミは動いていません。ここらでひとまず矛をおさめて、いずれ妙信講問題も、松本勝彌訴訟も、また、月刊ペン事件も、もうすぐ片がつく見通しだし、それから、また始めても良いではないですか」  北条浩氏は、首脳を集め、私の強い進言ということで、攻撃中止をはかった。  皆、心の中では、日蓮正宗攻撃をいやがっていたから、すぐにまとまった。その上で、池田大作に進言した。  池田大作も、どこまでやるか、日達上人を退座にまで追いつめられるか、自信がなかったところであったから、同意せざるをえなかった。  それに、強行すると、私が“仕事を投げ出す”と言っているため、この提案にさからえなかったのである。  その後、前述のように、池田大作が  「猊下がすべて悪い」 と言うのに対し、日達上人が私と打ち合わせた筋書どおり頭を下げられた、という段階を経て、第二次日蓮正宗攻撃は終わった。  秋谷栄之助副会長だけが、  「もう少しで日達上人をやめさせられたのに」 と未練げに言ったが、私は腹の中で“今に泣き面かくぞ”と、せせら笑った。  この年、三月から六月にかけて、池田大作は、日蓮正宗首脳や僧侶に対して、しきりにご機嫌取りを行なった。しかし、“経済封鎖”だけはゆるめなかった。  


創価学会からの「離脱」をはかった私

私は、かかえている事件の早期解決に奔走した。  まず、四月末、妙信講との間に訴訟上の和解を行い、最終解決した。  松本勝彌事件については、「宗教上の問題であるから、裁判所は訴えを門前払いすべきである」という主張一本にしぼり、その裏付けのためアメリカ(ハーバード大学、有力ローファーム)、ドイツ(ベルリン大学等)、フランス(パリ大学等)、イギリスへ行き、学説や判例を集め、また、世界的な憲法学者の鑑定書を集めた。  国内でも、有力な学者に鑑定を依頼した。後に、細川内閣で法務大臣を努めた、東大の三ヶ月章教授もその中の一人であった。  こうした努力のおかげで、松本勝彌裁判は、後に、最終的に勝訴した。  五月初めにホテルオークラで行われた、日達上人らを招いての会食で、池田大作は、  「妙信講問題は、山崎弁護士の獅子奮迅の戦いで見事解決した」 と、私をほめたたえた。  だが、池田大作と日達上人の、にこやかな談笑のなかにも、どこかヨソヨソしさがただよっていたし、池田大作の、私を見る目にも、いまいましさがあった。  この頃から、池田大作と創価学会首脳の私に対する態度は、それまでの“身内”扱いから、“客人扱い”へと変わり、ギコチなくなってきた。  言葉はていねいに、扱いはてい重にされるのだが、しかし奥座敷には入りにくくなった。  私は、妙信講問題の終了とともに、かかえていた情報師団の主力メンバーを、北条浩氏のもとに戻した。  彼等は、竹岡誠治、北林芳典を中心に再編され、野崎勲、八尋頼雄副会長の支配下に入り、後に、私に対する情報・謀略を担当することとなった。  私に残されたのは、「月刊ペン事件」と富士宮墓園造成事業、創価大学と創価学園の諸問題、それに、東洋物産の不祥事から派生した“シーホースの処理”くらいのものである。  他の日常的なことは、既に河上覃雄氏、岩住俊典氏らに一任していたから、私の足は次第に学会本部から遠のいた。


民社党と日蓮正宗の攻撃にパニックにおちいった創価学会

五月初め、創立記念日の行事が創価大学で行われた折、呼ばれた私は、どちらかというと“来賓扱い”だった。  一連の行事の終わりに、北条浩副会長に呼ばれ、一室で打ち合せることになったが、その時、はじめて、民社党から国会に提出される予定の質問趣意書のコピーを見せられることになった。  これをめぐって、創価学会内は大恐慌におちいった。これについては、後にくわしく述べる。  日蓮正宗からの反撃は、同年七月に入って、若手僧侶による池田大作講演批判論文が、教学雑誌に掲載されたことで火ぶたが切られた。  つづいて、全国で数十ヶ寺の寺院で、創価学会の教義違背に対する批判と、創価学会をやめて日蓮正宗信徒になるよう勧める“脱会運動”が展開された。  「山崎さん、見てくれましたか。いよいよ始めましたから、よろしく」 七月のある日、日達上人は、はずんだ声で電話をくださった。  八月下旬、伊豆で舟遊びに興じていた私に  「すぐ学会本部に来てくれ」 という呼び出しがかかった。  日蓮正宗対策にぜひ協力してくれ、ということであった。  やりたい放題をやって、しくじると、どうしようもなくなり、側近のだれもができない事態の収拾を私に押しつける。池田大作流のいつものパターンであるが、このときは事情が少し違った。


日蓮正宗の反学会感情が噴出

通じなくなった池田大作の手練手管

池田大作は私を利用して、日達上人をだまして矛先をそらし、一方で宗務院を脅したりすかしたりして、創価学会に一方的に有利な休戦条約を結ぼうと考えた。そこで、私の、創価学会に対する忠誠心は完全に切れてしまったのである。  日達上人も、そうした池田大作のやり口や手の内、そして私の心を見すかしておられたから、私がお目通りに行っても、  「今度は、どんな話を持って来たのですか、山崎さん」 と、笑いながら面白がって聞かれた。  それでも、池田大作は、  「見ていろ!! 日蓮正宗を手玉に取ってやるからな!!」 と側近に大見得を切って、宗務院を通じてのかけ引きに熱中した。  自分が仕掛けた戦争を、不利になったからといって私に収拾させた、というのでは、今後のリーダーシップにかかわると思ったのであろう。  だが、日達上人は、池田大作の手に乗らなかった。  宗務院を通して池田が申し込んで来たことについて、これまでのように直接、上人が決裁するのでなく、宗会や臨時僧侶会にかけ、宗内の世論を尊重する形をとった。  これまで、創価学会に対して、いろいろといじめられたり、いやがらせを受けてきてハラワタが煮えくりかえる思いをじっとこらえていた僧侶達、それも若手だけでなく、中堅、古老級の僧侶が、日達上人の御意向を慮って、びっくりするような強硬意見を述べ、学会からの和解提案をぶちこわした。  また時には、宗内の会議で何とかまとまりかけた和解案を、ドタン場で日達上人がひっくり返されることもあった。  その一方で、ほとんどすべての末寺で、僧侶が創価学会と池田大作を批判し、脱会者をつのる運動が激化した。  “このままでは、創価学会は崩壊する”  危機感にかられた創価学会首脳は、私の尻をたたいて、日蓮正宗との和解の糸口をさぐった。  既に創価学会は、宗務院を通じての工作をあきらめたし、宗務院側も、日達上人の御指示どおり一歩下がっていたのである。私をたよるしか道は残されていなかった。しかし、私が仲介して和解にこぎつけても、創価学会が取り決めを守らず、一方、若手活動家僧侶も、創価学会の違約を口実に創価学会攻撃をつづけたから、一向にさわぎはおさまらない。  なにしろ池田大作と創価学会には、過去三十年のつき合いの中で、日蓮正宗をバカにするくせがついていた。  せっかく、頭を下げ、譲歩して和解しても、その和解条項をいろいろと口実を設けて実行しない。そのうちウヤムヤにしようとする。そこで、各末寺が、“それみたことか”と、宗務院の制止をふりきってまた末端組織への攻撃を再開する、という悪循環が続き、そのつど、創価学会は追い込まれていった。


ゆとりの日達上人、追いつめられていく創価学会

日達上人は、こうした創価学会の体質を百も承知で、  「いっぺんに追いつめると、血迷って何をしでかすかわからないから、一歩一歩、段階を追って、押したり引いたりしながらやろう」 と、ゆとりを持って、池田大作の料理にかかられた。  何しろ、創価学会で、諸々の事件の処理役であった私が日蓮正宗側へついてしまったのだから、池田大作は飛車角を奪われたに等しいし、日達上人におかれても、私を通じて創価学会側の対応が鏡に写すようにわかるから、それまでと違って、楽に戦いを進められたに違いない。  そうした中で、昭和五十三年六月、教義上の諸問題についての聖教新聞紙上での訂正とおわび、同年九月、勝手に模刻した本尊の返納、十一月の幹部おわび登山へと事態はすすみ、五十四年四月には、池田大作の会長及び総講頭辞任へと行きついた。  日達上人は、表向きはとにかく、御内心は、できれば創価学会と手を切ることはしたくないと思っておられた。手切れとなれば大勢の会員が可哀相であるし、公明党、大学、学園、各種財団等、創価学会が展開してきた種々の事業について混乱がさけられず、そのことについて、これまで支援してきた日蓮正宗にも社会的責任がないとはいえない。それらを直接かかえこむほどの力もない。どこで、戦いを収束するかが、日達上人の最大のご決断となっていた。


池田大作、会長、総講頭辞任で事態収拾に

昭和五十四年四月、池田大作は、会長と総講頭を辞任し、創価学会の運営についても、これまでの独立独歩を改め、他の講中同様、日蓮正宗の監督下に入ることを約束し、そして自らは、創価学会から一切手を引き、北条浩氏を中心とする幹部達の会議に、その運営をまかせることを約束した。  日達上人は、これをもって、目的は達成したと考えられ、矛を収める決心をされたのである。  同年五月三日、創価大学の講堂で行われた総会で、日達上人は、  「今後、学会が日蓮正宗の教義を守るということの上で、過去のことは水に流そう」 と仲直りを宣言されたのである。

後継者を指名、くつろがれた日達上人

日達上人は、昭和五十二年頃から、既に体調すぐれず、同五十三年から五十四年にかけて、入・退院をくりかえされた。  動脈硬化と、心筋梗塞が進み、いつ何が起こっても不思議はないという状況が続き、その中での創価学会相手のかけ引きは、上人の御寿命をけずられるものだった。  池田大作の会長・総講頭辞任で、創価学会の牙を抜いたと判断された日達上人は、これで御自身の御法主上人としての最後の仕事は終えられた、とされて、新しい日蓮正宗の体制づくりに着手された。  昭和五十四年五月、日達上人は、阿部信雄総監、藤本栄道庶務部長、菅野慈雲海外部長という新しい宗務院執行部を決定され、発表された。これは、すでに一年前から洩らされていた、  “次は阿部に” という意思表示を、世間にも宗内にも示されたものである。  この決定に先立ち、四月末文京区西片町の管長宅(大石寺出張所)に呼ばれた私は、こうした一連の計画を打ち明けられ、“ひきつづき力をかしてやって下さい”とたのまれた。  以後、日達上人は、宗内の運営は新しい宗務院にまかせ、御自身は、各地に御親教に回られたり、旅行を楽しむプランを立てられたりと、半ば御隠居の生活を過ごされた。  特別のことがなければ、秋には正式に御法主の地位をゆずり、隠居なさる、という心づもりを私共にも語られていた。  日蓮正宗の宗務行政は、次第に“阿部体制”へと移行していた。  日達上人は、私に  「これまでのいきさつについて、阿部に知らないことがあってはいけないから、貴方からも阿部総監によく説明してください」 と言われ、常泉寺をたずねて親しくお話をさせていただいたこともある。  そもそも私が、宗門のことにくわしくかかわるようになったのは、妙信講問題がきっかけであり、総監代行であられた阿部信雄尊師(当時)・藤本栄道尊師(当時)との問題処理のための交流の中で、お二人から日蓮正宗のことをいろいろと教えていただいた。はりがね宗といわれた日蓮正宗の“僧侶根性”というものも、つぶさに見させていただいた。  お二人とも、創価学会幹部よりはるかに人間的であり、率直でかざりけなく、私達に接していただいた。  昭和五十二年以後、しばらく関係は中断し、時々日達上人のもとに伺ったとき、同席してあいさつや言葉を交わす程度の関係が続いたが、池田辞任後の、宗門体制再構築に当たっては、再び接点を持つようになったのである。  だが、日達上人のこのような思し召しにもかかわらず、創価学会は、相変らずなしくずし的に約束の空文化をはかった。  それに対して、急進的な僧侶や信者がはげしく反発し、小ぜり合いは各地で続いた。  



宗務院と若手僧侶の対立

日達上人、宗内秩序維持に苦慮

また新宗務院は、日達上人の指示どおり、和解路線を進めようとしたが、そのことに対する急進的な僧侶達の反発も強まった。  一方、新しい深刻な問題が生じていた。  日達上人は、創価学会に対抗するために、“根性のある若手僧侶”を起用したが、”根性ある僧侶”とは、ある意味でひとくせもふたくせもあって、従来の日蓮正宗の体制からはアウトサイダー的な人達も少なくなかった。  そうした、普段から宗務院の命令を無視し、仲間で固まる傾向の強かった僧侶達が、創価学会との戦争では中心になっていった。  なにしろ、創価学会の激しいつるし上げにも動ぜず、本堂にスポーツカーで突っ込まれるような直接行動にも動ぜぬ僧侶達である。  これらの僧侶達は、長い間、創価学会による強圧に、にえくりかえるような思いで耐えてきた、との思いを持っていたし、創価学会の横車に、ともすれば押され続けてきたように見える執行部に対する不信も強かった。  「はじめるからには、二度とあとには引けない。たとえ猊下がやめろといっても、創価学会を倒すまではやめない」  このような、激しい決意のもとに立ち上がった急進派の僧侶達は、宗門側優位の形勢の中、ますます意気が上がり、急進化していった。  そして、日達上人の全体的な観点からの思し召しにもとづく“進め”“引け”の指示さえ無視し、突っ走った。  やがて、ご病身の日達上人にとって、創価学会への対応よりも、これら急進派僧侶への対応の方がやっかいな問題となってきた。  急進派勢力は、次第に仲間をふやし、やがて過半数を越えた。そして選挙で宗会での多数派を占め、ついには、宗務院や内事部の指示にも従わず、自分達の考えで独走し、既成の秩序さえおびやかすようになった。  「創価学会をこのようにのさばらせたのは日蓮正宗執行部の責任だ」 と、公然と宗門を批判し、宗門行政の秩序をおびやかす存在となっていった。  「日達上人も優柔不断すぎる!」  「猊下がやめろといっても、我々は学会攻撃を止めるわけにはいかない!!」  「宗務院・高僧は、学会の金漬けになって堕落しきった。ウミを出さなくてはならぬ」  「我々で主導権をとり、日蓮正宗を刷新するしかない」  彼らの主張は、創価学会批判から、次第に宗門人事や行政批判へとエスカレートし、御法主の権威も無視してはばからぬ形勢となった。  彼らの主導権をめぐる思惑に、やがて次期御法主をめぐる思惑や人事についてのかけ引きまで加わるようになり、当然のことながら宗務院も硬化した。  日蓮正宗としては、ある意味で“パンドラの箱”を開けてしまったのかもしれない。  巨大な創価学会から日蓮正宗を守るため、やむをえず、真正面からではなくゲリラ戦から入って行かれ、そしてそれが成功しつつあっただけに、宗内秩序まで揺るがせてしまわれたといえよう。  



日達上人より急進派僧侶の説得を依頼される

昭和五十三年七月、創価学会は聖教新聞上に、教義上の誤りについての訂正を掲載したが、それに至る過程で、日達上人は私に、創価学会との仲介役だけでなく、宗内急進派の僧侶の説得、抑制を依頼された。  若い僧侶達は、時には自分達を、時には宗務院を前面に立てて、日達上人が押したり引いたり、攻めたり、ゆるめたりなさった、かけ引きの妙がわからないため、暴走してしまいがちであった。  日達上人は、当時持病の心臓病の悪化で入院退院をくりかえしておられ、自由に動かれなかったので、思い余って私に依頼されたのであった。  だが、急進派僧侶の鼻息はなかなか荒く、そのコントロールは難航していた。同年十一月の“おわび登山”直前に行なった攻撃中止の説得は、特に困難を極めた。  いきなりとりかこまれて、  「お前は俺達をだましに来たのか、ぶっ殺されるぞ!!」 と脅されたこともあった。 だが、誠意をもって、日達上人の御心のうちを説くうちに、次第にある種の信頼関係ができ上がり、理解してもらえるようになった。  彼らは、矛をおさめる前提として宗務院を通してではなく、直接、創価学会代表と対論する機会を求めた。  そのため、創価学会青年部首脳と急進派僧侶は、私の仲介で何回か会談した。  ところが、その結果は、創価学会首脳にカルチャーショックをもたらした。  「彼らの意見と自分達の考えや意識とは、全くかけはなれている。こんなに強硬な意見が支配的となっている以上、僧侶達とは、将来、絶対にうまく行くはずがない。」  そう認識した創価学会は、日蓮正宗の体制がこわれないうちに現在の宗門指導部に良い条件を出して和解し、その権威で、急進派を押さえさせるしかないと判断し、最終和解案へと進んで行ったのであった。  なお、池田大作の会長及び総講頭辞任は、日達上人が要求されたのではなく、収拾策として池田大作が自ら申し出たものであり、私はそれを取りついだのである。  


日達上人御遷化と創価学会の巻き返し

池田大作の辞任で最終和解をしたつもりが、創価学会側のサボタージュと、急進派僧侶の突き上げで、何となく雲行きがおかしくなった中で、昭和五十四年七月、日達上人は御遷化された。  あとを引き継がれた阿部日顕上人は、日達上人の  「私がしいた創価学会との和解路線を何とか推進してほしい。しかし、創価学会が違約したら、その時は、腹を決めて当たってもらいたい」 との遺命を受けて宗政を進められた。しかし、創価学会首脳は、“今が最後のチャンス”とばかり、宗門への「完全服従」「献身奉公」を誓うとともに、一方で、私や急進派僧侶が、創価学会批判を口実に、現執行部を追放して宗門支配を目論んでいる、との中傷を徹底して新執行部に吹き込んだ。  「新しい猊下には、私共は、何でもおっしゃるとおりに御奉公いたします。しかし、そのためには、立ち直る余裕を与えてください。  創価学会を批判する僧侶達を押さえてください。押さえられないなら、宗門から追放してください。さもなくば、これ以上、青年部はだまっていられない。何をするかわからない。そうなると、私にも抑えられない」  「御本尊にかけて申します。私は、猊下や御宗門をないがしろにするようなことは、けっして言っておりません。山崎や原島のいうことは皆なウソです」  「いいですか。山崎や原島のいうことはウソです。私を信じてください。宗門がどうなってもいいのですか。これが最後ですよ」  「若手僧侶は、日顕上人を追い落とし、他の人を御法主にしようと企んでいるのです」 と、恭順、服従を誓い、日蓮正宗の外護を約束し、その一方で、  「俺の言うことがきけないなら腹をくくって戦うぞ!! その時、後悔するぞ!!」 という脅しをきかせ、そして、宗内を分裂させる謀略を行なう。 まさに池田大作一生一代の勝負に出たのである。 日蓮正宗側は、こうした池田・創価学会の出方を真に見極めるには一定の時間が必要、と考え、当面は日達上人の遺命どおり、一歩、創価学会との関係修復にふみ出した。 それに、急進派僧侶が反発し、池田の思惑どおり、宗内の対立は深刻化した。 私も、池田大作の陰険な策謀によって、追いつめられ、流れのおもむくところ、急進派の人達と行動を共にすることとなっていった。 以後、私達は捨て身の反撃に出て、創価学会は窮地に陥り、昭和五十六年七月の総選挙では、公明党は惨敗した。  自民党も、一時私達の“創価学会批判”のしり押しをする構えをみせた。  池田大作は自民党と取引きして、公明党に議会で協力させることと引きかえに私達への弾圧を黙認させた。  その上で、学会は権力で警察・検察を動かし、昭和五十六年、私を恐喝罪で逮捕、起訴させるというウルトラCに成功し、窮地をきり抜けた。  こうして創価学会は、当面、平身低頭することによって、日蓮正宗との一応の関係回復をなし、そしてまた、自民党との裏のつながりを深めていって、危機の回避に成功した。  もはやこわいものがなくなった池田大作は、自民党の派閥抗争を利用して分裂を仕掛け、“二階堂擁立制”で新たな“天下盗り”の策略を練り直したのであった。


のど元過ぎて、日蓮正宗を再ぴないがしろにした池田大作

ついに、日蓮正宗から破門

“ノド元過ぎれば熱さ忘れる”というが、状況が好転するに従って、池田大作は、日蓮正宗との関係が、またまた次第にわずらわしくなった。  あわや死に体か、という時に、ありとあらゆる好条件を提示し、ひたすらひれふして慈悲をこい、そのおかげでもう一度チャンスを与えよう、との御慈悲で御法主上人に助けおこされたにもかかわらず、その恩は次第に忘れて、日蓮正宗への信徒団体としての務めを果たすことがいまいましくなり、御奉公の約束を反古にしだんだんと、昔のように「池田本仏論」が復活し、御法主上人や宗門僧侶を悪口中傷するようになった。  もともと、池田の謝罪や誓約は、その場の窮地を免れるための方便でしかなかったのだから、こうした本性の露出は時間の問題であった。  そして、温情をかけた日蓮正宗中枢が、やがて興ざめし、失望と怒りを味わうようになられたのも、当然のなり行きであった。  私は、近い将来、必ずや池田大作は再び本性をあらわし、その結果日蓮正宗と創価学会は決裂する、と確信を持っていたから、正信会側から疎外されたのを好都合に、ある時期から、静かに事態を見守る方針に転じていた。  やがて、平成に入ってから、日蓮正宗と創価学会の間の抗争が次第に表面化していく。  入獄する平成二年二月の直前に、ある方から、日顕上人の御意向が伝えられた。  私は、心安らかに下獄した。  最大の敵の一人であった私の下獄を見とどけた後、創価学会は、日蓮正宗との最終戦争に突入した。  平成三年十一月、日蓮正宗は、創価学会の破門にふみ切り、創価学会は、日蓮正宗との絶縁を宣言した。それにともない、会員が脱会して日蓮正宗につくことを防ぐため、創価学会は、なりふりかまわぬ宗門攻撃を展開していった。  また、破門を契機に、ある意味の拘束から開放された創価学会は、徹底した金集めと、政治への傾斜を深めていったのである。  本シリーズは、創価学会の経済面に焦点をあてて解明することが目的であるから、政治路線や宗門との対立については、その解明に必要な範囲にとどめた。

(創価学会と日蓮正宗の歴史、創価学会と公明党の政治路線については、別シリーズで改めて詳説し、後世に残したいと考えている。)                                              


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