池田大作の狙いは「傀儡首相を立てる」こと
二月十一日にフジテレビで放送された「報道二〇〇一」において、公明党代表・神崎武法は、首相公選制について問われ「魅力的な考えだ」と答えた。
首相公選制――。今の日本では、総理大臣は国会議員の投票によって決められているが、これを、アメリカの大統領選挙のように、国民の直接選挙によって決めよう、というのが首相公選制である。
この制度が導入されれば、国会議員だけではなく、その気になれば誰もが、首相選挙に立候補することができる。
この首相公選制に、創価学会・公明党が「魅力」を感じているというのだから、誰もが心配になってくるのは、かねがね、日本を支配する野望を抱いてきた池田大作が、この制度を利用して、総理大臣という権力の座を手にしようとしているのではないか、ということである。
同じ思いらしい「報道二〇〇一」のキャスターが、「八百万の組織票を持つ公明党からするならば、首相公選になると、池田名誉会長が総理になることもあるのかな、という気もするが」と、神崎に水を向けた。
すると神崎は、言下に「いや、それはありません」と、これを否定、国民の不安≠解消しにかかった。
しかし神崎は、「では、公明党が推す総理候補は神崎さんか」と切り返され、「公明党を代表しているわけだから、私も総理を目指して頑張りたい」と、首相公選制になれば、公明党代表は当然、八百万の組織票をもって総理の座を狙うことを明言したのである。
学会・公明党の真の狙いを見破ろう
そして池田院政政権を断じて阻止へ
我々は、この神崎発言の中に、池田の日本支配構想の基本を見ることができる。
このことから察するに、「池田が首相選に立候補することはありえない」との神崎発言は、おそらく池田自身の意向を踏まえたものであろう。
というのは、日本のみならず、国家の元首はことごとく、様々な不祥事や事件について、矢面に立って責任を追及される運命にある。最高権力者としての権限は手に入れても、責任を取るのは絶対にゴメンだ、という卑怯な池田大作が、そんな危険なポストに就くはずがないのである。
だが、池田は、首相にならなくとも(言い換えれば、一切の責任を負わなくとも)、それ以上の最高権力者として日本を統治することはできる。池田の傀儡(かいらい)政党たる公明党の党首が首相になれば、それが実現するのである。
そして、それは、池田自身が首相という責任を伴うポストに就くよりも、やりたい放題ができてしまう、という意味で、我々国民にとって、はるかに危険なことである。
具体的事例をひとつ挙(あ)げよう。平成六年秋の、宗教法人法改正問題での参考人招致を思い起こしていただきたい。
あの時、国民は皆、創価学会の実質的な支配者・池田大作の参考人招致を要求した。しかし、会則上では、創価学会の代表者は会長・秋谷栄之助であり、池田は、何の責任も問われない名誉会長という立場であったため、期待はみごとに裏切られた。国会に出たのは、池田ではなく秋谷だったのである。
これとまったく同様のことが、公明党党首が首相になった時に、国家規模で起こる。
すなわち、公明党から立つ首相は、もちろん池田を人生の師と仰ぐ、池田の傀儡(くぐつ)である。そして、その政権下でいかなる重大な問題が生じようとも、その責任は法律上の日本の最高責任者≠ナある首相が負うことになり、実質的支配者たる池田には何の類も及ばない、という構図になるのである。
かつて、熱心な創価学会員である山本リンダが、週刊誌の取材に答えて、
「池田先生は私達のお父様のような方で、日本の総理大臣なんかにしたら、もったいない、世界の指導者なんです」 というようなことを囀(さえず)っていたが、これは池田自身の想いでもあることは間違いない。
「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である。」(高瀬広居著『池田大作――その思想と生き方』)
日本の国が、池田大作の絶対支配下に置かれる危険性をはらんだ、公明党の首相公選制待望論――。
我々は、池田の意を汲んだ神崎発言の真意を見破り、その最悪事態の回避に努力していかねばならない。
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