シリーズ検証 創価学会・金銭疑惑
"身から出た、サビた金庫事件" 自由の砦 平成9年9月10日号より
平成元年六月三日、神奈川県横浜市旭区内の廃棄物処理場に、何者かが、一億七千五百万円が入った古金庫を捨てた。
二億円近い大金が入った金庫が、ゴミ捨て場に捨てられる。在日の海外報道機関も、金余りジャパンを象徴する事件として、世界中に記事を配信した。
いかにわが国が経済大国とはいえ、いったい、誰が捨てたのか。ほどなく所有者が判明したが、自ら
「あの金は私のもの」
と、名乗り出てきた人物に、世間は二度びっくりさせられる。創価学会幹部で、この当時、『聖教新聞』の事務理事などを務めていた中西治雄氏(当時六〇歳)だったからである。
なぜ、創価学会の一幹部が二億円近い大金を所有し、しかも捨てたのか。世間の目は、一点、中西治雄氏という人物に注目した。
中西治雄氏。創価学会の組織では、どのような立場にいたのか。
同会の会員が、学会の"バイブル"として熟読している本に『人間革命』がある。ご存じ、山本伸一を主人公にして、学会の歴史を美化している(現在も『聖教新聞』で続編を連載中)池田大作名誉会長"直筆"の小説だ。
山本とは、池田大作氏自身のことだが、この『人間革命』第七巻に、中道秋雄名で、中西治雄氏が登場している。どんな場面か紹介してみよう。
舞台は、昭和二十八、九年で、故・戸田城聖氏が二代会長を務めていた創価学会の草創期である。
中華料理のN園で、支部長や部隊長の肩書きを持つ学会の幹部たちが新年会を開いた。その席上、中西こと中道秋雄氏が一人立って歌い出す。歌は、土井晩翠の「星落秋風五丈原」。
「中道は歌い終わった。ひとり戸田は、慟哭にも似た姿で動かない。寒い正月の静まり返った街々へ、余情は流れるようであった。」
「『いい歌だ、もう一度、歌って聞かしてくれないか』
この時、山本伸一もすっくと立ち上がった。二人は、高く、低く、合唱しはじめた。雲が晴れ、広い室内を光が射すなかに、歌は朗々と響いて終わった。
戸田は、二人に促した。
『もう一度、歌いなさい』
……幹部も和して……強い芳香の漂う一瞬の劇となった。」
創価学会の草創期時代、組織内で、よく、この軍師・諸葛孔明を讃えた「星落秋風五丈原」が、好んで歌われたという。当時、学会内にこの歌を初めて紹介したのは、ほかでもない、このとき、戸田の前で歌った中西治雄氏だったといわれている。
その中西氏の経歴をみると、昭和四年一月二日、千葉県浦安市生まれ。昭和三年生まれの池田大作氏とは、一歳違いで、偶然にも誕生日が一緒である。
陸軍幼年学校の四七期。同期の同僚によれば、頭が切れ、質実剛健のタイプだったという。
やがて終戦を迎えると、郷里の浦安で漁師などをしていたが、池田大作氏より一年遅れて二十三年、学会に入信。
昭和三十五年、池田氏が、三代会長に就任すると、中西氏は本部参謀に任命された。本部の参謀といえば、当時の学会組織では最高幹部に属する。
中西氏をよく知る元・古参幹部が、こう言う。
「何でもでしゃばり、自己顕示欲が強い池田とは対照的に、中西は物静かな男だった。反面、仕事はきっちりこなし、出世欲などまるで眼中にない人物でしたね。」
ただ幹部として、もくもくと学会活動に従事していた中西氏だったが、昭和四十年ころを境にして、組織から姿を消す。聖教新聞の紙面にも登場しなくなった。
べつに学会を退会したわけではない。むしろ逆に組織の中に、深く潜行していったのだ。では、組織の奧で中西氏はどんな業務を遂行していたのか。
学会の裏会長とか、池田氏の金庫番の異名を持った、中西氏のもう一つの顔がそこにある。
中西氏は学会の経理全般に目を光らせ、さらには、学会系列企業グループである「金剛会」の経理まで監視していたというのだ。興味深いこんなエピソードがある。
日本図書輸送(『聖教新聞』など学会機関紙等を一手に輸送している運送会社)、シナノ企画(学会の教宣ビデオなどを製作、販売している会社)、栄光建設、創造社(いずれも学会施設の設計、建設を請け負っている会社)ほか、聖教新聞社、創価大学を含めた学会系列の企業、団体の社長だけで作っている「社長会」という集まりが存在していた。
同会の中心人物は池田大作氏である。その社長たち十数人が昭和四十年代、毎月一回、一流ホテル、あるいは料亭を会場にして、池田氏を囲む会食会を開いていたのである。
豪華な食事を楽しみながら、各社の社長たちが、池田氏の話を拝聴するという趣向だが、ある日、その社長会で池田氏がこんな発言をしているのだ。
「学会には税務署が二つある。四ッ谷税務署(学会本部の所轄)と、中西だ。」
巨大組織を君臨している池田氏に、税務署と言わしめるほど、学会組織の金に関する中西氏の力が絶大だった証拠である。
組織の金だけではない。池田家の財政についても、中西氏は、采配を振るっていたようだ。こんなエピソードもある。
池田氏は、現金をばらまくのが好きである。たとえば、東京・小平の創価学園を来訪した際に、封筒に現金を入れ、中学生たちに小遣いをばらまく。そのため一時期、父兄から、
「子供に、むやみに現金などあげないでほしい」
と、先生に苦情が寄せられたほどだ。学園に限らず、創価大学でも、学会幹部に対してもそうである。
気前がいいというのか、世の中、金で人間がどうにでもなると思っているのか。宗教家として、感心できない振る舞いだが、さて、エピソードである。これは、元古参幹部の目撃談だが、
「ある会場に行ったとき、池田氏がいきなり振り返り、随行していた中西氏に向かって、"中西、金持って来い"と、言ったんです。すると中西氏は、分厚い財布を持って走っていきましたよ。」
つまり、中西氏は池田氏から、財布まで預けられるほど、金銭的には絶大なる信用を得ていたのだ。また、池田氏も無条件に信頼していた。執事というか、まさに池田氏の金庫番といえよう。
池田氏が三代会長に就任して以来、影のように寄り添い、黒子役に徹してきた中西氏。その中西氏が、じつは一度、池田氏に造反を試みたことがある。
昭和五十三年、創価学会と宗門の間に亀裂が生じて、いわゆる第一次学会VS宗門紛争が起こった。学会の"独立路線"に端を発した紛争である。翌年の五十四年四月、この紛争の責任を取って池田氏は、三代会長を辞任し、名誉会長に退く。
当時、数万単位の学会員が脱会し、後に宗門からも二百人を数える僧侶が離脱するという、凄まじい紛争であった。
この紛争の終了間際、学会本部から当時、総務の肩書きにあった中西氏の姿が忽然と消えたのである。組織内では公にされなかったが、学会首脳は血相を変えた。もし中西氏に造反でもされたら、同会はパニックになる。なにしろ、学会本部の裏の裏まで知り尽くし、池田氏の金庫番とまでいわれた人物だ。
一説、本部から姿を消した中西氏は、"就職探し"をしていた、といわれたが、ほどなく、学会本部に戻ってきた。
「宗門との紛争などで、学会や池田氏にほとほと嫌気がさした中西氏が、本部に別れを告げたかったのでしょう。しかし、学会最高幹部たちが、中西氏を説得して、本部に戻した。このとき、戻ってくる条件として、副会長にしてやると言ったという話もありますが、本人は辞退したと、聞いています。」(元、学会幹部)
本部が中西氏の失踪を隠したいといっても、噂は広まる。その噂を打ち消すために学会は、中西氏の顔写真を聖教新聞に掲載した。"裏会長"が、表の聖教新聞に登場するなど、十数年ぶりのこと。それはそれで、また話題を呼んだものである。
さて本部に復帰した中西氏は、その後、聖教新聞社の一室に席を移す。以後、池田氏とは離れて、日々、読書三昧の"業務"についていたというのだ。言ってみれば窓際族だが、かつて、影の会長とまでいわれ、権勢を誇った中西氏の、晩年の姿である。
組織や池田氏からも距離をおき、ただ定年を待つだけの中西氏。一億七千万円入り金庫事件は、そんなときに起こったのである。果たして中西治雄氏は、ゴミ捨て場に捨てるほど金を持っていたのか。
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